螺ス倉庫

ほぼ倉庫

SABI 少女の記憶

1番古い記憶の中にあるのは広い広い屋敷。
そしていつも傍にいてくれる少年の姿。


広い屋敷の一角からは拙いピアノの音色が鳴り響いている。
その音色を奏でるのは幼い少女の小さな手。
どこかぎこちないメロディーはいつも同じところで止まってしまっていた。
「あーもうまたダメ!」
ピアノを弾くのを止めると少女、アリサはがっくりとうなだれた。少女が動くたびに揺れる色素の薄い金に近いその髪は一目でハーフであると感じさせている。その隣には垂れているのに目つきの鋭い、アリサと同年代の少年が仏頂面で立っている。服装を見た限り、使用人見習いのようである。しかし瞳の色素が薄い割に真っ黒な少年の髪は、彼に冷たい印象を与えさせている。
「ソウマ〜どうしたらいいかな〜?」
ため息交じりで隣の少年、ソウマに話しかけるとソウマはアリサの元に歩み寄り鍵盤をゆっくり叩いた。
「ここの時にこう…指を運んで…」
「こう?」
首をかしげながらソウマの方を見るが彼は鍵盤を見たまま答える。
「そうだ、やってみろ」
およそ使用人とは思えない高圧的な態度で命令するが日常茶飯事なのだろう、アリサは
むっとすることなくソウマの言ったとおりに演奏してみる。
すると先ほどのぎこちなさが消え、次の旋律へと移ることができている。
アリサは目を輝かせながらソウマの方へ振り返る。すると少年は今度は少女の目をまっすぐ見て
「よくできたな、偉いぞ」
そう言いながら微笑んだ。

当時の少女は楽しい記憶でいっぱいだった。ずっとこんな日が続くのだろうとすら無意識のうちに
考えていたのかもしれない。しかし少女の幻想は錆びついた兵器によって飲みこまれ、消失させられた。

少女の日常が非日常へと変わったその日、少女はいつも通り使用人見習いの少年と一緒に屋敷の庭で遊んでいた。
いつも遊び相手がソウマ1人だったので、弟や妹がいればもっと楽しいのだろうと少し欲を出したりしながら。
そんな時、ふいに屋敷の背後に赤褐色の錆の塊が現れた。その錆の塊はみるみるうちに増殖し、屋敷を覆った。屋敷が覆われたその瞬間、呆けていたソウマははっと我に返った。
心臓がどくどくと脈打つのがわかる。関節のきしむ音が身体に響く。
命の危険が感じられたその瞬間、弾けるようにアリサの手をつかみ一気に駆けだした。そのまま敷地から外へ外へ、錆の塊に飲み込まれる屋敷を振り返らずにただひたすら走る。
アリサは状況が飲み込めていなかったらしくまだ呆けたまま、何故自分が走っているのかすらわからない様子であった。ただただ手をひかれながらその目は錆に覆われつつある屋敷へと向いていた。
「おとうさんとおかあさんは…?ねぇソウマ、私のおうち…どうなっちゃったの?ねぇ…」
ぼんやりと、感情のあまりこもらない声で自分の手を引く少年に問う。しかし答えは返ってこない。
ソウマもまたその問いに答えられるほど平静を保てる状態ではなかったからだ。少年はただ「守れ」と言い聞かされていた少女を守るためだけに動いていただけだった。

程なくして大人たちによって安全を確保された少年と少女は、自身が暮らしていた首都が赤褐色の錆の化け物によって壊滅させられたことを知った。そして2人の親が屋敷とともに化け物に飲まれたまま、ついに帰ってはこなかったことも―――――


その日、少女は泣いた。自分の身体が枯れ果ててしまうのではないかと思うぐらいに。少女は少年の胸を借りて泣いて、泣いて、泣いて、そして、決意した。
この手であの化け物を破壊しようと。両親の仇を討とうと。

錆の塊がSABIという化学兵器だと報じられ、またそれに対抗する組織を作ろうとしていることを、アリサは大人たちの会話から聞きつけた。SABIに対抗する組織、その言葉に彼女は思わず目を輝かせた。
それは、あの化け物を目にしてから1年が経とうとしていた頃だった。
「あいつに対抗する組織を作るために人員を募ってるらしいよ!しかも私たちみたいな孤児を!」
聞きつけた情報を興奮した様子でソウマにまくしたてるアリサ。その様子に一瞬眉をひそめたソウマはアリサに問いかける。
「なんだそりゃ、軍隊みたいなものか?訓練とかあるんだろ?辛いと思うぜ?」
「辛いかもしれないけど…でも私、その組織に入りたい!」
「お前が想像しているよりもっと過酷だ。覚悟はできてんのか?」
「覚悟ならとっくにできてる。もう泣かないし、弱音も吐かない」
押し問答の末、強いまなざしでまっすぐに自分の目を見つめられたソウマは1つため息をついた。
「…わかった。オレも一緒にはいる」
ソウマにとっては主について行くことは当たり前のことであったが、そんなことは知らないアリサは思わず目を丸くした。
「え?ソウマも一緒に来てくれるの?」
「不服か?」
「そんなことない!ソウマがいると私、何でもできる気がするもん!ありがとう!」
ぎゅうとソウマの両手を握り、アリサは満面の笑みを浮かべた。
彼女の日常が崩れ落ちた日からなかなか戻ることのなかった心からの笑顔を見て、ソウマは目を見開き、そしてほんの少し頬を緩めた。


少女は少年の手を引いてSABIに対抗するための組織へとはいった。そこでの訓練は想像していたよりも過酷ではあったが、この訓練であの化け物を破壊できるのだと思うと胸が躍った。そして少女は宣言通り、泣きもしなければ弱音も吐かなかった。
そしてアリサは訓練の中で自分の身体能力が恵まれていることを知った。屋敷にいた頃は重いものなどほとんど持ったことはなかったし、過度な運動もしたことがなかった。そのため、自分の潜在能力に気づいていなかった。
敵を叩き潰すためのくるくると回し、踊るように動く。こんなことができたのだと訓練ではじめて知り、自分の力と、それを引き出してくれた組織に感謝した。

組織で訓練を重ねてから数年が経ち、いよいよ卒業が近づいてきた頃、「実地訓練」という名で大きくはないサイズのSABIの討伐訓練が予定されていた。
ついに自分から大切な人たちを奪った敵の一部を破壊できるとアリサはいつになく上機嫌だった。
その様子を見たソウマに軽くたしなめられ、アリサは同じくらいの大きさだった少年がいつの間にか見上げるほどにまでなっていたことに気づき、少し驚いた。
そして、そういう自分も背が高くなったし、眼鏡をかけるようになったし、そばかすができた、と思い返し、時の流れを実感した。
「ねぇ、ソウマ。訓練生を卒業したらどこに配属されるかな?」
ふと、卒業後の自分たちについて想像したアリサはソウマに問いかける。
「さぁな、知らん。」
「ソウマは優秀だからきっと首都圏とかSABIの多い地区へ配属されるんだろうね」
「SABIの多い地区だと?んなとこには行きたくねぇな。汚ねぇから」
ソウマの成績はたしかに優秀だった。どの科目もアリサよりはるかに上位の成績をとっていたが、座学だけはアリサの意地でアリサがトップに立っていた。しかし彼の自己中心的な性格と潔癖さは周りの子供たちを敬遠させており、あまり憧れられる存在ではなかった。
ふとそのことを思い出し、アリサが困ったように小さく笑うと、何が可笑しいのだろうかと小首をかしげながらアリサの目を見た。
「オレは…」
「ん?」
「オレはお前が行くところについて行くだけだ」
そんな告白めいた言葉を不意打ちでくらい、アリサは少し顔を赤くさせながら眉を吊り上げた。
「もう!私はもうお嬢様じゃないんだからそういうこと言わないの!」
「オレは今でもそう思っている」
あたふたし続けるアリサを見ながら平然とそう言ってのけた。その様子にアリサは深くため息を吐き眼鏡をかけなおした。
「明日の実地訓練では気を引き締めないと…」
小さくつぶやいたアリサの横顔を見てソウマの表情は一瞬曇りを見せた。

実地訓練で訪れた先にいたのは小さな錆の塊だった。
その地では大型のSABIはほとんど掃討されており、残りは小さなSABIのみとなっていた。小さいとはいえ本物のSABIと戦うことで今後実地へ向かうことを想定させるとともに、ほんの少しでも訓練生の経験値を上げることが目的らしい。教官の指示に従い、あらかじめ決められていた班で行動しながらSABIを駆逐していく。アリサはソウマとは別の班であったが、班員とともに順調にSABIを片づけていく。そのあっさりと計画通りに進む様を見てアリサは少し違和感を覚えた。
「こんなに簡単なの…?」
これでは両親や大切な人をこんなものに奪われたのは何だったのだろうか。
それとも人類が強くなったのだろうか。
こんなに、こんなにも容易く私の復讐は完了するのだろうか。
小さなSABIを叩く間、ぼんやりとそんなことを考えてしまっていた。
辺りには訓練生が倒したSABIが四散したことによって霧の様な砂の雨が降り注いでいた。
そんな時、アリサは背後に何かの存在を感じた。勢いよく振り向くとそこには赤褐色の壁があった。己の身長よりも高い、蠢く化け物の壁が。
アリサは自分の武器である普通のものよりも長い大槌、槌式を構えなおし直面しているSABIに突進しようとした。
しかし、身体が動かない。
目の前の自分より大きな敵を見て彼女は思い出してしまった。
日常を覆されたたあの日の記憶を呼び覚まされてしまった。
彼女の家を覆った巨大な錆の化け物に与えられた恐怖を、大切な人を奪われた恐怖を、自分や隣にいる少年の命が奪われるかもしれない恐怖を、彼女は一瞬のうちに思い出してしまった。
倒したいのに、破壊したいと心の底から願っていたのに、身体が言うことを聞かない。
身体が情けなくがくがくと震える。
その間にもSABIはアリサの方へじわじわと近づいてくる。彼女の身体を飲み込もうと、じりじりと。
ついにアリサの膝は地面につき、逃げる行為すら拒絶した。
どうしようもなくなって敵から目をそらそうとしたその時―――

「え…?」
見慣れた背中が壁を作った。
遮られた視界の端からは錆の化け物が核を破壊されて飛び散り、砂飛沫が舞う様が見えた。
すぐあとに壁は小さな舌打ちと「汚ねぇ」というつぶやきを漏らした。
「ソウ…マ…?」
その声に振り向いた馴染みの少年は綺麗好きであるにも関わらず顔面にべっとりと錆が顔に張り付いていた。さらにSABIを破壊したばかりであるためか、普段から鋭い眼光がさらに鋭く、アリサに駆け寄ろうとしていた周りの者は返り血を浴びた修羅を連想させ、思わず身を強張らせた。
「怪我はないか?」
「大…丈夫…」
至極いつもどおりに話しかけてきたソウマを見てアリサは長い溜息を吐いた。
「ソウマ、ごめん、ごめんね」
ため息の後に出てきたものは謝罪の言葉だった。
自分は覚悟を決めていたと思っていた。でも覚悟を決めたつもりになっていただけだった。自分はまだまだ弱い存在で、あの時とほとんど変わっていない。1人で敵に立ち向かうどころかおびえてしまって、結局はソウマの身も危険に晒してしまった。
謝罪の言葉が頭の中で次から次へと溢れてくる。しかしそれを口にできず、何か言おうとしても声が震えてろくに言葉を紡げない。
アリサは震える手でソウマの腕を掴んだ。ソウマは何か察したように膝をついて右手をアリサの後頭部に添え、軽く自分の方へと抱き寄せた。
その瞬間、それを待っていたかのようにアリサの目からはぼろぼろと涙がこぼれ始め、止まらなくなった。
大切な人たちを失ったあの日から泣かないと決めていたはずなのに、涙は止まってくれなかった。
アリサは実地訓練の終わりを教官が伝えに来るまで子どものようにひたすら泣きじゃくっていた。
まるで、今まで我慢していた分の涙まで流してしまわんとばかりに。


訓練の中で少女は己の弱さを知った。だからといって彼女の心は折れることはなかった。少女は己の弱さも知った上で、さらに強くなろうと決心した。また彼女は実地訓練の時にいつも自分の隣にいてくれた幼馴染の存在の大きさを知った。彼のように強くなろうとも思った。少女はそれを少年に伝えるところ、あっさり否定されたのはまた別の話である。
卒業試験を終え、訓練生はそれぞれの配属先へと旅立っていく。その先に待っている過酷な戦いの日々を覚悟しながら。
それは元・お嬢様の少女と元・使用人見習いの少年もまた同じであった。


「明日からカンサイ支部かー。一緒に頑張ろうね、ソウマ!」
「あぁ」
アリサに笑顔を向けられたソウマはいつも通りの仏頂面で短くそう返す。
「そういえばソウマ、なんで髪染めたの?」
アリサの記憶が正しければ訓練生卒業式の日はまだ黒髪だったはずだ。そして配属先がカンサイ支部だと決まった次の日には髪が栗色に染まっていた。
「間違われたくない奴がカンサイで働いていると聞いた」
正確には本人からメールが届いたのだが、その事実を認めたくないのかソウマは何気なく言い方を変えた。
「ソウマって兄弟いたっけ?」
「いや、いない」
「じゃあ親戚とか?」
“親戚”という単語を聞いて黙り始めたソウマを見て図星と判断したアリサはそれ以上詮索するのを止めた。もしかしたら向こうに行けば会うことになるのかもしれない。それまでどんな人物なのか想像しておこう、と思うことにした。
「でも、ソウマが一緒で良かった」
軽く伸びをしながらアリサは言う。
「…そうだな」
「やっぱりソウマが一緒だと何でもできる気がする」
少女は挑戦的な笑みを浮かべ、それを見て少年は小さく微笑んだ。